雨上がりの朝に

エピローグ



「痛ッ!」
「ようやく起きましたか。お休みになったからといってだらだらしてはいけませんよ」
 雫は一瞬目を疑った。
 そこにはいつもの朝の風景があったから。
 白金の髪を静かに揺らしながらカーテンを開ける後姿。そして小言を言いながら「ご飯できてますよ」とベッドから出るまで自分を見張っているアイスブルーの瞳。
 さっきまで一緒にいて言葉を交わしていた父も母もいない。
 長い夢を見ていたのだろうか?
 痛む額を押さえながら、雫は眩しい朝の光に溶けてしまいそうなプラチナブロンドの持ち主の名を呼んだ。
「……えのっきー?」
「何ですか?」
 怪訝な表情で返される言葉。
 榎は、いつもの榎だった。
 そして、ここは間違いなく自分の部屋で、さっきまで両親と一緒にいた霧雨の降る不思議な場所ではない。
(ってことは……あれは夢だったんだ!)
「よ……かったぁ……。えのっきー!」
 心の底から喜びが駆け上がって来る。
 長い長い変な夢。実は天使だった榎が突然いなくなって、亡くなった父がアヤシイ裏家業をしていたりして。挙句に自分が死んでしまって亡くなった父と母に会ったりして……。後半はよかったとして前半の榎がいなくなる辺りなんて、とんでもなく悲しくて、胸がとても痛かった。めちゃくちゃ涙が出た。
(夢でよかったよぉ……)
 喜びを隠すことなく、雫はベッドから飛び出して榎に抱きついた。
 この変な夢を笑い話にして朝食を食べよう――そう思った。
 が、その刹那、身体前面に衝撃と痛みが走った。
 目の前を星が飛ぶ。
「……????」
 雫はドアに突進していた。
 ドアの前に立っていて、雫を抱きとめるはずだった榎がいつの間にか消えてしまっていたのだ。
 何が起こったのか理解できない。
 その雫の頭に直接、榎の声が響いた。
『今日は時間切れです。雫の魔力では私のほうが起きていられません』
(え――――?)
『入学式までには宮本のところに行って魔力つけてもらって下さいよ。私としてもせめて入学式の間くらいは起きていたいですからね。修行に励みなさい』
 頭に響く榎の言葉。それは、こういうことを意味しているのだろうか――?
「…………夢じゃ、なかったの…………?」
 雫は、榎の姿を探しながら脳裏に浮かぶ可能性の一つを呟く。その一方、もしかしたら自分がさっき見たのは幻覚で、声が聞こえたのも幻聴なのかもしれない――そんな風に頭の中を混乱させながら。
『雫、昨日はあなたが倒れてしまったので、勝手に仮契約しておきましたよ』
 けれど、雫の呟きにしっかりと返答する声がある。その姿はやはり見えないままだし、どこから聞こえてくるかと問われれば直接頭の中に響くとしか答えようのない声。
 それは、いつもと変わらない口調。丁寧だけどどこか尊大で。間違いなく、榎のものだった。
「――――――ハ!」
 雫は声をあげて笑った。まだ目の前に星がいくつか飛んでいたけれど、そんなことは気にならなかった。
 結局、笑い話にしようと思った夢は、現実だった。
 不可解だった夢の中での両親の会話がようやく理解できる。
 焔が言った『お父さんのところ』『こっち』――それは彼が命を落とした裏家業の世界。雫曰く、アヤシイオカルト商売の世界。
 焔はそんな危ない世界に雫が足を突っ込むことを望んでいなかった。しかし先に亡くなった母親は、いつか雫が父と同じ道に進むであろうことを予想していた――。
 どうにも見えてこなかった両親の会話は、つまりこういうことだったのだ。
 そしてもう一つわかったことがある。
 それは榎との生活が望み通り、確かに戻ってきた――ということ。
 昨日までとちょっと違ったアヤシイ関係になってしまったけれど、榎が今まで通り傍にいてくれる――雫にはこれが一番大切で、素直に嬉しい。



 朝食の並べられたダイニングに行って、窓を開けた。
 雨上がりの澄んだ空気が、雨の日とはまた違った清々しさで雫を目覚めさせる。
 それを見越したようにセットされていたトースターが跳ね上がり、榎の代わりに「さあ朝ごはんですよ」と雫を食卓に誘う。
 そこにはアイスブルーとプラチナブロンドのテディベアが銀の懐中時計を持ち、並んで座っていた。

「雨上がりの朝に」終