耳の中にこだまする雷鳴の残響に混じって、心地よい音が聞こえる。いつもこの音を聞くとうきうきする。心と身体が「早く起きなきゃ勿体ないよ」と自分を促しているような気がする。
(あぁ、雨が降ってるんだよね……)
雷と共に叩きつけるように降っていた雨はいつのまにか小降りに変わっていた。横たわる雫に、雨は優しく降り注いでいた。
『雫、何でこんな無茶したんだ』
懐かしい声。そして額に大きな手が置かれ、上から落ちてくる水滴が顔に当たらなくなった。
『お父さんと同じところなんか、来ることなかったのに』
溜息を一つこぼして呟くその声は、6年前に亡くなった焔(ほむら)のものだった。
(何だ。死後の世界ってホントにあるんだ)
不思議な安堵が雫を包んだ。死んでしまっても、傍に父親がいてくれる。榎がいなくなっても、もう一人ではない。それが嬉しい。
「だって――」
頭上で嘆息している焔に、さっきまでの経緯と自分の気持ちを伝えようと雫は瞳を開けた。すると、その昔と変わらない懐かしい姿の隣から自分を覗き込んでいるもう一人の姿を見つけた。
線の細い女性。どことなく儚げな、少女のように若い人だ。
『雫ちゃん、淋しい思いをさせてごめんね』
雫と目が合った瞬間、彼女は言った。姿から想像したままの上品な声。
「おかあ……さん?」
直感した。きっとこの人は自分の母親だ――と。
『あぁ、嬉しい。雫ちゃん、私のことわかるのね』
雫の問いに目尻を指で拭って、母親は頷いた。そして起き上がった雫をふわりと抱きしめ、その首に自分の着けていたペンダントを掛けた。雫の名と同じ、水滴をかたどった石。水がそのまま石になったような不思議な輝きだった。
吸い込まれそうな美しさの石を手にとって、雫は溜息を零した。
「綺麗……」
それに、それだけではない。何か胸の奥が心地よい安堵に包まれる。まるで雨の日の目覚め前のような感覚。静かに癒されると同時に、力強く励まされるような、心身ともに力がみなぎるような感覚がする。
くれるの?――目で問うと、母親は微笑んで頷いた。
『焔は雫ちゃんが「こっち」に来るの嫌だったみたいだけど、私はいつかきっとこの日が来ると思ってたわ。だから、とって置いたのよ。雫ちゃんがこっちに来たらあげようと思って』
「え――? まさか私が早死にするって予想してたの、お母さん?」
確かに人はいつか死んで「こっち」に来るもの。けれど一般的な親の気持ちとしては、焔のように自分の子供が早く「こっち」に来ることは望まないものではないだろうか。
一緒に暮らせなかった分、少しでも早く娘に会いたいと思ってしまったのかもしれないけれど、とにかく縁起でもないことを予想する母だ――そう、雫は顔をしかめた。
すると、そんな雫に母親は一瞬きょとんと目を瞠り、少女のように笑いだした。
(ん? 違うみたい?)
よほど雫の言葉が面白かったらしく、母親は言葉が継げないまま、澄んだ笑い声を響かせている。雫は困惑した表情のまま、父親に視線を移す。代わりに質問に答えてもらおうというのだ。
笑い転げている妻に苦笑を浮かべ、焔は雫の肩に手を添えた。
『子供の早死にを望む親なんていないぞ、雫。でも――まぁ、「こっち」に来てしまったものは仕方ないから、お父さん、今更何も言わないよ』
(うん。確かにもう死んじゃったんだから、今更何を言っても何をされててもどうしようもないんだけどね)
父親の言い分ももっともなので、雫は納得して笑みを浮かべた。ちょっとイミフメイな母のことよりも、これから父親だけでなく、母親とも一緒にいられる――その幸せの方が大切だと思った。
「お父さん――」
一緒に暮らしていたときのように胸に飛び込んで抱きつく。
もう15歳にもなる。2人で暮らしていたときのような小さな子供ではない。自分の両親にこんな子供みたいな甘え方をするクラスメイトもいないだろう。少し恥ずかしいことなのかもしれないけれど、雫は気にしない。
(だって、私、もう死んじゃったんだから関係ないもん)
誰が見ているわけでもない。何も言われることもない。
だから、素直に甘えよう。また一緒にいられることを喜ぼう――そう思う。
大好きな父のにおい。タバコのにおいは幼いころの記憶のまま。
「お父〜さんッ」
嬉くて、父を呼ぶ声が歌うように跳ねてしまう。
『雫、本当に大きくなったなぁ。お父さん、こんなかわいい娘に抱きついてもらって幸せだぁ』
ふざけた明るい口調も記憶のまま。優しく髪をなでてくれる大きな手のあたたかさも、同じ。
『……ずっと、オレが育ててやりたかったんだけどなぁ……ごめんな、雫』
不意に、焔が一転して真剣な口調で言った。そして、雫は父の両腕にやわらかく包まれた。
『雫ちゃん……ごめんね』
そしていつのまに笑いが治まったのか、背後からおずおずと掛けられる涙に濡れた声。華奢でやわらかい――けれど父とは違う安堵をくれる腕がそっと雫を抱いた。
抱きしめてくれる両親のぬくもり。言葉よりも何よりも、ただこのあたたかさだけで愛情が十分に伝わってくる。
けれどそれだけでなく、幼かった日に欲しいことすら言えずにいたこと――1人でも2人分の愛情を注ごうとしてくれている父の姿を見ればこそ……死んだ者は帰ってこないという自然の摂理を理解していればこそ、「言ってはいけない。父を困らせてはいけない」と飲み込んできたこと――それと同じものを両親もそれぞれ胸に抱えていたのだと知った。
涙が、溢れてきた。
「…………っ……」
堪えきれずに胸の奥から溢れ出す嗚咽と涙。それは
(私、お父さんとお母さんの子供でよかった。幸せだよ……)
――という心から感じる想い。深い感謝。
『一緒にいてやれなくて……寂しい思いさせてごめんな……』
『……ごめんね、雫ちゃん』
抱きしめられて、髪を優しくなでられて、雫は2人の謝罪の言葉に更に涙をこぼした。
(違う、2人のせいじゃないよ。謝ることなんかない。私は幸せだよ)
首を大きく振って両親の言葉を否定する。
3人で暮らせなかったこと――誰が悪いわけでもない。生き別れでないのだから尚更だ。それに……
「寂しく……なか……た」
両親がいないという寂しさがなかったといったらそれは嘘になる。けれど焔の死後、雫の生活が毎日寂しいものだったかといえばそれもまた嘘になる。
「独りじゃ……なかったよ……」
そう、雫は独りではなかった。
布団を引き剥がす呆れた表情。玄関で見送ってくれる優しい笑顔。食事を作っている後姿。勉強を見てくれるときの横顔。
涙を拭う雫の瞼に浮かぶのは、当たり前のように彼女の日常にいてくれた端正な容貌の青年の姿。
「……えのっきーが、いてくれたよ」
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