「一度だけ、雫が本当に困ったときだけ姿を見せましょう。そのときは雫の名の元に私を喚(よ)びなさい」
去り際に榎が宮本に託した雫への伝言。
しかし、宮本も炎紫も、一生喚び出さないくらいの気構えでいたほうがいいと忠告した。理由は「危険すぎる」から。
榎ほどの高位のモノが契約主のない状態で、その生前の言葉にのみ縛られていたこと自体が奇跡のようなもの。そして、一度解き放たれたモノから見れば、そんな束縛は屈辱極まりないことであり、更に「本当に困ったときだけ」との条件は雫の主観が必ずしも通用するとは限らない――契約を離れた榎の気分次第であること。雫のような力ない者が彼を目にすれば、それだけで消し飛ばされてしまうのが常なのだ――と聞かされた。
表の家業は伊達ではなく、宮本の説明は雫を身震いさせた。そしてそれだけでは安心できなかったのか、宮本はとどめとばかりに帰りの車中で炎紫の鬼火に雫を攻撃させた。
攻撃といっても、それは脅しのレベルだった。思いきり手加減をし、決して火傷をさせるなと命令していたのだから。
それでも、雫は得体の知れない力に恐ろしい思いをした。そして、そんな雫に宮本は言った。「全力を出した鬼火は、榎の髪一本ほどの力もないのだ」と。
それがどういう事なのか、わからない雫ではなかった。
しかし、召喚を決意した。
(消し飛ぶ? 上等じゃない。榎がそうするんだったら構うもんか! 元々私はお父さんのお葬式の日、榎に殺されていたんだから!)
雫を突き動かしていたのは、失うものがもう何もないという一歩間違えば自暴自棄とも成り得る想い。
早くに亡くなったのだという母の記憶はない。物心ついたときから父と2人きりで生きてきた。その父との記憶も9歳になる年まで。
それからは――――?
友達や先生、いつも自分を気にかけてくれている宮本一家をないがしろにしているわけではない。けれど雫にとって榎の存在は、彼がいなくなったら何も残らないと感じてしまうほどに大きな比重を占めていた。共に暮らした『続くのが当たり前』と思っていた日々がそうさせていた。榎は雫にとって足元を支えている大地そのものだった。
そして自分を支える大地を失う恐怖を雫は知っている。たった一人の家族だった父を亡くした幼い日に、そんな絶望を不幸にも経験してしまったから。だからこそ、周りの友人たちのように家族を煙たがり「要らない」などと冗談にも決して思わない。
考えることが、出来ない。
確かに義務教育が終われば一人前なのかもしれない。それに父を亡くさずに育ってきたとしても、あと数年もたてば進学・就職・結婚と、当然だが家を出ることになっていたはずだ。そう、ほんの数年それが早くなっただけ。
けれど、雫にはそう感じることが出来ない。自分が甘えていることにすら気づいていない。
それは、父を亡くしたあの幼い日の恐怖を思い起こさせるような突然の別れのせいなのかもしれない。榎に渡すことが――伝えることが出来なかった何かがあったからかもしれない。
とにかく、雫は榎という大きな支えを、今、失いたくなかった。
宮本が一度だけ見せてくれた召喚方法。口頭で伝えることが出来ないと紙に書き記してあった。そしてそれすらも危険だというので、一度見たらすぐに灰にされてしまった。
しかし、それはしっかりと雫の瞳に焼きついている。
召喚方法は意外にもごくごくシンプルで、喚びたいモノの名とそれを喚ぶ者の名を名乗ればよいというものだった。
燃やされた紙には単純明快なその手順と 榎の真名――彼の本当の名が書かれていた。
それが呪文のすべて。
同年代の女の子たちの間で、忘れたころに流行りだすオカルト遊びのような長ったらしいものでもなければ、うやうやしい手順も道具も、一切必要なかった。
それでも雫は丁寧にそのシンプルな手順を思い起こす。確実に、榎に逢えるように。たった一度のチャンスを自らのミスで逃してしまわないように。
深い深い深呼吸の後、雫は瞳を閉じて名乗った。
「初芝雫が、喚ぶ」
この先を言葉にのせれば、召喚呪文はもう引き返せない。どうなるのか、想像もつかない。
けれど、雫は前へ進む。
もう一度逢いたい――失いたくない――その想いだけが彼女を突き動かしていた。
「ここに来て」
願いをこめて閉じていた瞳を開く。
何が起ころうとも彼の姿を見つけるために。
「――メタトロン!」
それが榎の真名。
神の書記官であり、熾天使(セラフィム)を束ねる死の天使。最も神の近きところに在る強大なモノの名。
真名を言霊に載せた刹那、遠くで雷鳴が轟いた。
いつの間にかきつく握りしめていた両手が震える。それとほぼ同時に、部屋の空気が一変した。
(……来る!)
緊張しているせいではない。明らかに、いつもと空気が変わった。
榎が来るのだと直感的に理解る。
部屋中のガラスを震わせながら、雷鳴は次第に激しくなり、叩きつけるような雨とともに近づいてきた。明かりのついていない部屋に閃光が駆け巡り、光と闇が争うように交錯する。その閃光を浴びるたび、痺れに似た痛みが雫の全身を走った。
「――っ!」
顔をしかめるが、耐えられない痛みではない。それよりも、雷が近くなるに連れ感じる猛烈な威圧感。それがもたらす息苦しさのほうが辛い。
うまく呼吸が出来ないのだ。
そして、この感覚を雫は知っていた。
(……息を、止めちゃダメ。命令されても、止めちゃダメ。まだ、文句の一つも言ってないじゃない!)
あの時――父、焔の葬儀の日のように、自主的に呼吸を止めてはいけない。榎の思うまま、自ら呼吸を止めてはいけない――彼の無言の命令に従ってはいけない。屈してはいけない。
自分の身体ではないような不自由さに抗いながら、雫は幼かったあの日と同じように、今、自分を苦しめているこの息苦しさの理由を直感した。そして、今更ながら愕然とした。
(これが、天使の力……)
宮本や炎紫が言ったように、この瞬間、自分という存在が消し飛んでいないだけましなのかもしれなかった。しかし、人知を超えた力に組み敷かれてもなお、雫は足掻き、抵抗することをやめなかった。
ただ、もう一度彼に逢うためだけに。
諦めたくはなかった。
「――出て、きな――さいよ!」
いうことを聞かずに呼吸を止めようとする身体は、雫の声をかすれさせていた。けれど、それでも雫は叫んだ。
「――そこに、いるんでしょ、榎!!」
裏返る声。心地よいトーンで響く少女らしい雫の声は、壊れた笛のようだった。
そして、その空気が漏れただけのような叫びが合図になった。
「!!」
不意に息苦しさから解き放たれる。
威圧感は消え、ひっきりなしに轟いていた雷鳴も交錯していた稲妻も、嘘のように静まった。
息苦しさから解放された雫はたまらず咳き込んだ。榎の見えない力に抵抗していたとはいえ、取り込めていた酸素量は身体が必要としているものをはるかに下回っていた。身体が必死になって酸素を欲する。それと同時に、無理に声を出したせいで渇ききった喉を潤そうと飲み込んだ唾液が、大きく吸い込んだ空気と共に器官に入り込んでしまった。まるで喘息の発作のように雫の喉はヒューヒューと鳴り、咳は止まらない。
榎のもたらした苦しさから解放されたばかりだというのに、今度は自分の身体がもたらす苦しみに雫は涙を零して抵抗していた。
(私……バカみたい……こんなことしてる場合じゃないのに!)
近くにいるはずの榎を見つけなくてはいけないのに。探さなくてはいけないのに。早く探さなければ消えてしまうかもしれないのに――!
雫はこの肝心なときに自由にならない己の身体を罵った。
その時だった。
「大丈夫です。ゆっくりと飲みなさい」
「――!」
胸を押さえ、しゃがみこんでしまった雫の背に大きな手が触れ、水の入ったコップが差し出された。
榎、だった。
※
「……宮本は説明しなかったのですか」
「したからこうして喚び出せたんでしょ!」
「危険だとは言われなかったのですか」
「言われた」
「…………なんと馬鹿な娘なんでしょうね、あなたは」
「榎ほどじゃないと思うけど」
沈黙を破り、一言言葉を交わせばいつもと同じに会話は弾んだ。
「それを言うのが用事ですか?……殺しますよ」
しかし、やはり榎は人間ではなかった。
呼吸が落ち着くまで優しく背をさすってくれたのが嘘みたいな殺気を放つ。
けれど雫はアイスブルーの瞳から視線をそらさずに言った。
とても挑発的に。榎の殺気を煽るように。
榎でない彼に、怒りを覚えていたから。
「それが用事だといったらどうする?」
「…………!」
「戻ってこないんなら、殺しちゃってくれない?」
半ば勢いで出た言葉。けれど、それもいいかと思う。こうして、また逢うことが出来た。けれど、彼は今までの彼であって、彼ではない。
雫が逢いたかった榎ではない。
雫にはそれが悔しかった。榎の顔でメタトロンという名の『天使』の表情をする彼が腹立たしかった。
それが彼本来の姿であり、今まで見てきた姿の方が不自然だったと言えるのかも知れない。けれど、雫にはそんなことはどうでもよかった。たとえ彼にとって不自然だろうとも偽りだろうとも、雫にとっての『榎』はこの6年8ヵ月一緒に暮らした者が榎なのだ。
目の前にいる『天使(メタトロン)』などではない。
(『榎』が戻ってこないんなら、意味がないじゃない……)
雫は、そう思った。
しかし、自暴自棄になった雫の言葉が、『天使』の榎から殺気を消した。
「脅迫ですか」
溜息と共に吐き出される酷く自信のない声。辺りを包んでいた神々しい気配も一気に霧散した。
「何よ、脅迫って――」
雫は話の腰を折られたような表情で榎の言葉を繰り返し、はたと気づく。
「何? 榎は私を殺したくないんだ」
雫の前に糸ほどに細い光が下りてきた。
今、彼女の眼前で困惑を隠せない表情をしているのは紛れもなく雫の望む『榎』。彼は自分を殺すことを望んでいない。いつも自分の身を案じてくれていた榎のまま。つまり、元の生活に戻れるかもしれない――その希望の光。
しかし、その光は細い。またさっきのようにちょっとしたきっかけで天使に戻ってしまうかもしれない。そうなったらこの希望は間違いなく消えてしまう。この細い糸を決して切ってしまってはいけない――雫は溢れ出す激情を必死で隠し、さらりと言った。
「それなら、戻ってきてよ」
頷いてほしい。それが叶えばどれだけ嬉しいだろう。
鼓動が高鳴る。けれど気づかれてはいけない。熱を帯びようとしている頬も、静めなくてはいけない。冷静に……冷静にしなくてはと、自分に言い聞かせた。
「……あきれてものが言えませんね、その傲慢」
「――!」
しかし、光は消えてしまった。榎は再び凍てついた天使の視線で雫を見下ろした。
涙が出そうになった。
(本当に、もう……だめなんだ……)
榎でない彼など、これ以上見たくなかった。
今まで通りの生活が叶わない傲慢な夢だというのなら、そんな未来は要らない。かといって、榎や宮本達が望むように、今までの生活を諦めて、一人で生きていくことを選ぶ気にもなれない。
(そんな勇気――今の私にはないよ)
もう、自分の足元を支えるぬくもりが突然消えてしまう恐怖は味わいたくない――それが雫の本音だった。
顔をそむけて、その思いを吐き出す。
「だから、それなら殺してって言ってる――」
言いかけた雫の目に、足元に置いたままになっていた通学バッグがとまった。
そして、一つ忘れていたことを思い出した。今日の予定の中で、ともすれば卒業式よりも大切なこと、だ。
式の予行が始まるずっと前の一月下旬から計画し、受験の合間も縫ってこつこつと時間をかけて準備してきたのだ。
「――あ、ちょっと待って。渡すものがあったんだ」
涙が零れそうな瞳と、涙声を必死に隠しながら、雫は脇に置かれたバッグの中からそれを探り出し、差し出した。
(本当に、私が渡したかったのはこんな天使じゃなかったけど……仕方ないよね……)
「これは……?」
不意に押し付けるように渡された物に、ふっと一瞬、天使らしからぬ人間くさい驚きの表情が走った。しかし、榎でない天使の顔を直視しようとしない雫が、それを見とめることはなかった。
彼の胸に抱かれているのは赤いリボンのかけられたテディベア。その毛並みは彼の髪と同じ、流れるようなプラチナブロンド。焔の作ったアイスブルーのテディに比べたらずっと見た目もきれいで市販品のように見える。けれど、それは間違いなく雫が一針一針心をこめて作ったものだった。
「卒業式の後に渡そうと思ってた。一応、今まで面倒見てくれてありがとうっていうお礼だったんだけど――」
(それと、『これからももう少しよろしく』ってものだったんだけどね)
続けたかった言葉を飲み込んだ雫はテディベアに視線を固定したまま、目の前の天使に重ねた榎の面影に向かって小さく笑った。そして、今実際にそれを持っている、榎ではない天使に続けた。
「ま、私の形見にでもしてくれれば御の字だけどね」
(きっとこの天使(メタトロン)ってば、これのこと私と一緒に消し飛ばすんだろうな……。えのっきーだったら…………笑って、受け取ってくれたかな?)
「お父さんのはえのっきーにあげちゃったけど、私のために作られた物だってことは変わらないでしょ? だから、これはえのっきーのためだけに私が作ったの。まぁ、私の自己満足だけどね」
再び、『榎』に向かって雫は微笑んだ。『榎』に届きはしないのだと思いながらも、伝えずにはいられなかった感謝の気持ち。
これで思い残すことはないかな――そう呟いて雫は天使の顔に視線を向けることなく瞳を閉じた。
願いは叶わなかったけど、これが出来ただけでも幸せなんだろう。そう思うべきなんだろう。
雫は静かに微笑んだ。
一方、雫が見ようとしなかった『天使』の表情は、明らかに変化していた。雫の言葉に衝撃を受けていたからだ。
『自己満足だ』
昔、焔もこう言って雫にテディベアを作っていた。そして『親子の愛情確認だ』と。
今も昔も、その考えがよく理解できないのは変わらない。
けれど、あの時とは確実に何かが違った。
胸にあるこれは自分のために作られたもの。作り主の雫がそう明言したのだから間違いはない。そしてそれは感謝の気持ちをこめて、丁寧に丁寧に作られたもの。そのぬくもりを確かに感じる。
胸が、あたたかくなる。
これを自分に隠れて作っていた雫の表情が、見てきたかのように鮮明に脳裏に浮かぶ。
天使の表情は三度崩れ去った。
「……何故、死を願うのです。焔が守った命。私が費やした時間。それを、捨てるのですか」
雫の行動と、自分にぬいぐるみを渡してからの静かな微笑。そして胸に湧き起こるあたたかな感情に困惑を隠せず、『榎』は訊ねる。
しかし、瞳を閉じたままの雫は、目の前の彼の変化に気づかず、問われるまま静かに答えた。
「……お父さんの持論がなんだか知らないけど、私はまだ一人で生きて行けるほど、大人じゃない」
答えた雫の頬を、堪えきれず溢れた涙が伝った。
「雫……」
「……一人は怖い、一人は嫌だ……。置いていくくらいなら、最初から一人にしてほしかった! あの時なら、きっと一人でも生きていけた。こんなに弱くなんてならなかった!!」
胸の中の泣き言や恨み言をすべてさらけだし、雫の身体は力を失ったように前へ傾いだ。
「……一人にしないで……」
本音。
榎との日常を取り戻すために本心を覆った虚勢や打算。それをすべて取り払った雫の素直な気持ちだった。
終わりを覚悟した雫には、それしか残っていなかった。
「榎がいない家なんて……イヤだよ……」
榎の胸の中ですべての想いを吐露した刹那、静まり返っていたはずの閃光と雷鳴の爆音が雫の身体を貫くように轟き――雫はそのまま意識を手放した。
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