午前11時45分。待ち合わせの場所――校門に、榎は現れなかった。色とりどりの傘の下、大勢の人が待ち合わせていたそこから誰もいなくなるまで、雫は待ち続けた。
約束を破ったことなどない榎だった。
バッグの中の卒業証書と赤いリボンをかけられた贈り物は、一番見てほしかった人にすっぽかされてしまった。
※
ゴトリ――そんな重みのある音を立てて、雫の前に古い時計が置かれた。
場所は街のフレンチレストラン。
何が起こっているのかわからず、ただ呆然と待ち続けている雫を迎えに来たのは宮本とその息子、炎紫(えんじ)だった。
別の中学だったが、彼も雫と同じく今日が卒業式。そのお祝いと称して、宮本はここに『3人分』の予約を入れていたのだった。そう、まるで榎がいなくなることを知っていたように。
「初芝の形見だ」
雫の当然の質問を保留にしたまま、ほぼ無言で済まされた食事の後、宮本が改まった表情でこれを差し出した。
銀色の懐中時計。開くと蓋の内側は鏡になっていた。そしてその鏡の後ろの隙間に、一枚の写真――赤ん坊を抱いた若い焔が挟まっていた。
「卒業祝いってのも変だけどな。ようやく直ったんだ」
宮本は言った。
「お父さんの……」
雫にとって思いがけない贈り物だった。写真の赤ん坊は自分だ――雫は思う。そして父と過ごした遠い日の思い出が優しく蘇った。
宮本は7年もの時間をかけてこれをこつこつと直してくれていたのだろうか。
そう思うと、胸が熱くなった。
しかし、今聞きたいのは父の昔話ではなかった。
「――おじさん!」
誤魔化さないで。そう言いかけて、雫の言葉は遮られた。宮本が「大丈夫、今から話すよ」と頷いたのだ。
「結論からいこうか……。榎はもう家には戻らない。今日、雫の卒業式が終わった時点で契約期間が終了したんだよ」
契約――榎に会ったばかりの頃に聞いた言葉だった。
おそらく亡くなった父が自分の保護・養育を頼んだことなのだろうと解釈して、雫は今まで生きてきた。それだけの恩義や友情が榎と父親、宮本と父親の間にあったのだろう――そのありがたさに感謝を忘れた日はない。
しかし宮本が言うように、それが今日で終わりだというのなら、何故前もってそういう話をしてくれなかったのだろう。
今朝もいつもとまったく様子の変わらなかった榎。帰りの時間の待ち合わせまでしていた榎。
本当に彼は今日が契約終了日だと知っていたのだろうか?
信じられなかった。
「初芝の持論がな、『中学出れば一人前の大人』っていうもんだった。そして、死に際にあいつは言ったんだ。『雫が一人前になるまで、頼む』ってな……。それが、初芝と榎の最後の契約だ」
「……だから、えのっきーは帰って来ないって言うの?」
たとえ宮本が「そうだ」と頷いても納得できない。
「あいつが何も言わずに姿を消したのなら、それがあいつの望みなんだろうよ」
「どういう……意味……? えのっきー……榎は今朝、私と待ち合わせの時間まで約束してたのよ!? それなのに、そんなことってあるワケ!?」
守れない約束など、したことがない榎だった。
雫は周りに他の客がいることも忘れ、ヒステリックな声をあげた。やはり、宮本の言うことが納得できない。
「百歩譲っておじさんの言うとおりだったとしても、何でお別れの挨拶も連絡先も言わないでいなくなるのよ!? そんなのおかしいじゃないッ、榎よ!? あの礼儀にうるさい榎がすることだって言うの!?」
雫の頭の中で、信じられない考えばかりが巡り始める。
宮本は『何も言わずに姿を消したのなら、それがあいつの望みなんだろうよ』こう言った。
別れの日を隠していた榎。行き先も隠したことになるのだろうか? それは「二度と会いたくない」こういうことなのだろうか?
(……私、嫌われてたの……?)
決して良い子ではなかった。ありがたいと思いながらも榎の手を煩わせ、わがままを通すこともしょっちゅうだった。
けれど、雫はそれを『家族』だから許される範囲だと――二人が赤の他人でも『家族』足りえているからこそ出来ることだと信じて疑っていなかった。
それが今、瓦解していく。
そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。榎には苦痛でしかなかったのかもしれない。
目の前が真っ暗になってくる中、雫に冷ややかな声が囁きかける。
『そりゃそうよ。何が面白くて人生で一番楽しい時間をガキんちょ育てるために割くってのよ。妹でも姪でもない真っ赤な他人をよ? それも独身のまま。
榎だっていいかげん自由になりたいわよ。これ以上人生侵食されたかないわよ。アンタ、そんなこともわからないの?』
声は雫を嘲った。
けれどそれは雫自身の声。雫の中のどこか冷静な部分が『私と榎は家族』と信じて疑っていなかった自分に嘲笑を浴びせているのだった。
けれど納得できない。
宮本の言うことが――頭の中に響く、冷めた自分の言葉が、信じられない。
いや、信じたくなどなかった。
信じてしまったら、何か大事なものを自ら捨ててしまうことになる――雫は、そう直感していた。
「信じられるわけないじゃないッ!」
「周りにメーワクだろーが!」
雫の泣き出しそうな叫びを、それまで黙って話を聞いていた炎紫の鋭い声が遮った。
「……オヤジさぁ、もっと直球で話しゃいいじゃん。ずっと親代わりだった奴がいきなり『契約期間が過ぎました』とかいう理由で、何にも言わずにいなくなってみろよ? 雫じゃなくても泣きたくなるさ」
デザート用のフォークを弄びながら、炎紫は父親に進言した。こううるさいと、デザート来る前に追い出されるじゃないか――そう付け加えて。
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