雨上がりの朝に

3.失踪-2



 夕方。他に誰もいない初芝家で、雫はひとり座り込んでいた。
 あの後、余計なものすべてを省いて宮本が話し聞かせた事実は、あまりに荒唐無稽なものだった。
 しかし、雫は実際に見てしまったのだ。すべてを知っていた炎紫のポケットからこっそりと顔を覗かせたモノを。
 それは「こんにちは。ボク、鬼火です」と喋った。ライターでもろうそくの先でもない、何もないポケットの中にあった小さな丸い炎。しかも、どこを焼くことも焦がすこともなく、あまつさえ自己紹介までしてくれた。
 そしてそれを見て平然としている宮本とそれの飼い主のように振舞っていた炎紫。
 彼らが話し聞かせた事は、紛れもなく事実なのだと雫は納得する他なかった。
「えのっきー……人間じゃなかったんだ」
 椅子の上で膝を抱えて呟いてみる。自分の声にして確認してみないことには、どうにも信じきることが出来ないような気がして、雫は何度も事実を声にしていた。
 雫の父焔は、宮本と家庭教師兼その派遣業を営んでいた。が、それはあくまで表の仕事。彼が主として活動し、収入を得ていたのは裏の仕事――炎紫が見せたような『人間ではないモノ』一般に関わるものだった。
 それは洋の東西を問わない節操なしのオカルト商売。学校の怪談でお馴染みの花子さん祓いから、捕獲した精霊に強制的に分けてもらった魔法の販売までなんでもアリ。
 そして宮本は現在もその仕事を続けていて、実は炎紫までそういうバイトをしているのだと説明された。
 そんな仕事をしている時に、焔は人間が天使と呼ぶモノ――榎と契約を交わし、仕事を手伝ってもらうことになった。本来なら、榎ほど高位のモノと焔が契約など出来るはずもなかったのだが、何がどう間違ったのか榎が焔に興味を持ち、自ら進んで契約をしたらしい。
 そう言われて思い返せば、確かに榎は人間離れしていた。その容貌の完璧さもさることながら、出会ったときから少しも老けた様子のない外見。しかしそれは毎日顔を合わせているせいだと、雫は思いこんでいた。
 そして宮本が言うには、何も告げずにいなくなったのは榎なりの愛情なのだそうだ。焔が亡くなるあの事件の日まで、雫が一度として榎に会った事がなかったのは焔の強い希望――雫を人間でないモノに関わらせて危険な目に遭わせたくないということからだった。しかし、そう思いつつも死の淵で焔が雫を託すのに一番信頼を寄せたのは他ならぬ榎で……。その焔の思いを知ればこそ、そして自らも焔と同じように考えていればこそ、榎は何も言わずに雫のもとを去ったのだろう。早く自分の事を忘れてくれればいい、そう思っていたのだろう――と。
 「焔が生きてたら怒るだろうな」そう苦笑を浮かべた宮本によって、すべての種明かしをされた今、雫は何も言わずに榎が姿を消した理由を彼の気持ちに近い状態で理解できるような気がした。あくまで宮本の言ったことは彼の考えであって、榎が本当のところどう考えて姿を消したのかはわからない。けれど、もし自分が榎の立場だったら、同じようにしたかもしれない――少しはそう思うことができる。
 榎に疎まれていたのではない――これに関しては、雫は少し救われた。
 けれど、やはり榎がここにいないことには変わりは無い。
「お父さん、えのっきー……怪しすぎるよ。ワケわかんない」
 テーブルに突っ伏して、榎と共にいなくなったテディベアの代わりにそこに置いた懐中時計――父に、愚痴をこぼす。
 その目尻には涙が伝っていった。
 書置きすら何一つ残されていないテーブルの上に、ガスレンジの上に、冷蔵庫の中に……雫の好物が残されている。
 これだけあれば一週間は食事に困らない。
 いなくなることを隠していた榎。別れの言葉すら残さなかった榎。けれど、彼は雫に食事を残してくれていた。
 食事の準備をしている時の榎の笑顔が鮮明に蘇る。嫌われてなど、いたはずがない――日常だったその笑顔と目の前の食事に雫は確信する。
 けれど……これを食べてしまったら、榎がいない生活を受け入れることになる。そんな気がした。
「食べてなんかやるか、榎のバーカ」
 いつもなら「口汚いと姿まで醜くなりますよ」と注意の言葉が飛んでくるはず。
 それを期待してしまう。
 そして、返ってくる静寂に涙を零すのだった。
「えのっきー……」
(どうして、いないの? どうして、いなくなっちゃったのよ)
 雫は、2DKの初芝家を初めて広いと感じた。