雨上がりの朝に

3.失踪-3



「行くのか」
「はい」
 卒業式が終わり、生徒たちは最後のホームルームを始めるためそれぞれの教室へ移動していた。そして、式に出席した父兄もそれについて行く。
 そんな人々の波から外れた人気のない来客用ロビー。そこで紫煙をくゆらせていた宮本は、突如背後に現われた気配に振り返ることなく声をかけた。
 彼は、気配の主がこの時間、自分の元へ現われることを知っていた。待っていた、と言った方が正確かもしれない。
「そうか……やっぱり行くのか」
 雨の降り注ぐ中庭を眺めながら、宮本は小さく溜息をつく。
「雫には……?」
 事情を説明したのか――言葉にはせず、宮本は背後を振り返る。
 その問いに首を横に振ったのは、プラチナブロンドの青年――榎。彼も宮本と同じく、ついさっきまで行われていた卒業式に出席していた。ただしこの学校のものではなく、ここから車で20分離れた雫の通う学校の式に。それも式が終わる最後――つい2分前まで。
 人間――『雫の保護者』としての彼であればどんなに急いでもこの時間にここに来る事はできない。今、宮本の前に立っている彼は、『人間ではない』榎だった。
 目を伏せて静かに答える榎を見て、宮本は思う。随分、人間くさい表情をするようになったな――と。
「……そうか」
 榎はこの6年と8ヵ月の間で随分変わった。だからこそ宮本は「行くのか?」などと、わかりきった質問をしてしまったのかもしれない。僅かな希望を持っていたのかもしれない。
 宮本は密かに願っていた。
 雫と榎の生活が今日で終わらなければいい、と。
 いくら亡き父親の持論であったとはいえ、まだ15にしかなっていない少女に「これからは独りで生きてゆけ」と突き放すのは心が痛む。無論、自分がもう暫く養育するつもりではいる。――が、やはり一緒に暮らしてきた者と突然離れなくてはならない雫の気持ちを思うとやるせない。
 榎に対する雫の信頼と愛情を知ればこそ、その思いは募る。
「雫、泣くだろうな。多分……」
 焔の葬儀の日、幼いながらも寂しさと不安をひた隠し、涙をこらえていた雫の表情が思い出される。また、あんな表情をさせることになるのか――心を痛めさせるのかと思うと、自分の方が辛くなってしまう。
「……そう、でしょうか?」
 宮本の言葉に、榎は珍しく歯切れ悪く答えた。
「雫のこと、一番お前がわかってるだろうが」
 榎は、自分の内に溢れ出す不可解な感情を押し殺そうと、宮本にさえ簡単に想像できることに気付かない振りをしていた。いや、『不可解』と『位置付けた』それから目を背けていた。
 認識したくなかった。
『不可解な感情』として、そのまま放っておきたかった。
 そうすれば、本来自分がいるべき場所に戻れる。そして、この気持ちが一時の迷いだったと片付けられる。
 榎は、恐れていた。
 何かに捕われかけている――変わりかけている自分に。
「……正直言うとな、このままお前が雫のところにいるのが自然な気がするよ。今日、これからいなくなってしまうことはもう何年も前からわかってたことだってのに、今はそっちの方がおかしい気がする。意外と、お前と雫は上手くやってきたよな」
 しかし、宮本は榎が目を逸らしていることの核心をついた。
「……良い、家族になったよ。お前たちは」
「――――!」
 榎はその言葉に激しく揺さぶられた。


 呼ばれる雫の名前。
 壇上に上がって行く後姿。
 うやうやしく卒業証書を受け取る姿は、他のどの生徒よりも優雅な所作だった。
 数日前、「何度も練習させられた」と愚痴を言いつつも、「その成果をとくと見よ!」と笑っていた。
 証書を持って壇上から降りる時、「どうよ?」投げてよこした自慢げな笑顔。


 ほんの少し前に見てきたばかりの出来事を、榎は脆い古文書を紐解くように大切に大切に思い返す。
 その笑顔が、涙に変わる。
 宮本の言う通り、雫は泣くだろう。
 焔の持論と違って、雫はまだ独り立ちするには早い。おそらく、まだ独りで生きていけない。
 生きる術を、彼女はまだ知らない。学ばせなかった。そういう風に養育――甘やかしてきたのは、他ならぬ自分自身。
 だが、宮本がいる。すでに決まっている高校への進学も、その先の大学にも、彼女が希望すればそれに応えてくれるだろう。
 生活はしていける。これからの数年間で、彼女は独りで生きていく術を学んでいけるだろう。
 突然、ただ独り残される。彼女はそれが辛くて泣くのだ。
(……私は、何を考えているのだ)
 榎は、自分らしからぬ甘い考えにかぶりを振る。
(そこまで面倒を見てやる必要はない。心配してやる必要もない。契約期間は終わった。雫が泣くことなど、私が心配すべきことではないだろう?)
 実際、彼女の生活面での心配はない。それだけで充分ではないか――
 榎は、必死で思いとどまる。
(焔のため――焔の望みを叶えるためだけに、あの娘と暮らしてきたのだ。そう、ただそれだけなのだ)
「――契約を完璧にこなすには良い家族になるべきだと判断しました。あなたがそう感じるのはその成果に過ぎません」
 迫りくる呪縛の蔦を振り払うように、榎は言った。しかし、その言葉に反して、表情はどこか切なげだった。
 宮本は煙草の火を消し、雨の降る中庭へ再び視線を移した。そして、呟くように言う。
「そんな切ない表情するくらいなら…………いや、なんでもない」
 もう少し、雫のところにいてくれないか――言いかけて、宮本はかぶりを振った。
 それを、彼は言うことができないのだ。言えるだけの力がない。
 契約を結ぶには、榎と宮本は力の差がありすぎた。今、こうして榎と話ができているのも、親しいから、気に入られているからではない。ただ、契約を履行するに当たって、宮本の協力が彼にとって有益だったから。榎の気まぐれ――ただそれだけ。
 今、宮本が榎と契約を結ぼうとすれば、ほぼ間違いなく契約交渉は失敗する。そしてその代償として、宮本は間違いなく瀕死の重傷以上の痛手を負う。
 つまり、自殺行為なのだ。
「情けねぇなぁ。雫のために何もしてやれない、か……」
 自嘲気味に表情を歪め、宮本は2本目の煙草に火をつけた。
「……あなたにも、世話になりました」
 榎は『雫の保護者』として、頭を下げた。
 これが、最後。これで、終わり――瞳を閉じて自分に言い聞かせる。
 雫は美しく知性的に、しかし、時に見せる我侭や幼さもまた魅力的に育った。それを卒業式という短い時間で充分に再確認できた。
 最終確認、できた。
 契約を遂行できたのだ――と。
 榎は心に絡み付いてくる蔦を振り払い、顔を上げた。この瞬間に、彼は本来の彼に戻った。もう二度と、宮本のような脆弱な存在に頭を垂れることはない。雫のような些末な存在に関わることもない。
「……お前のおかげで仕事も随分楽できた。かえってこっちのほうが世話になったさ」
 まばゆさと圧倒的な力の差に眉根を寄せて、けれど、宮本は笑った。
「初芝に代わって礼を言う。今まで、ありがとう」――と。
 その言葉に、青年の姿をした天使は、羽ばたこうとしていた翼を止めた。
 そして、一つの伝言を残し、彼の在るべき処へ還っていった。