雨上がりの朝に

2.契約-2



「……お前、これがどういうことかわかってるんだろうな」
 泣いたことで張り詰めていたものがやっと緩んだのか、雫はそのまま眠りに落ちた。
 葬儀、納骨を終え、会葬者たちへ挨拶を一通り済ませた宮本は、初芝家に向けて車を走らせていた。後部座席には眠る雫が、助手席には榎が――アイスブルーのテディベアを大事そうに抱えて座っていた。
 これから彼が初芝家で雫を守っていくのだ。
 それが、さっき彼が宣言した契約。
 そして初芝焔が最期に望んだことだった。
「いくら契約主が命じたことだってな、その初芝が自分がいなくなることを前提にした命令だぞ。お前たちにとって、契約主が死んじまったらすべての契約は無効になる。それを、敢えて契約として結んだ」
 降り注ぐ雨は次第に強くなっていた。視界が悪い。まるでこれからの雫の未来のようだと、宮本は溜息を隠せない。
「お前にとっても負担だろう。それにお前ほどの者なら飽きたからといって途中で契約破棄することも出来ないだろう」
「当然でしょう」
 青年の意思はもう誰にも動かせないと宮本は知っていた。だが、心配でたまらない。一人の人間の人生を預かることの重さを、息子を持つ彼は良くわかっている。
 雫に殺意さえ向けた榎が、その力を愛情に変え父親になり代わる。常識では考えられないことだが、榎の場合、その点での心配は全くないと宮本は識っていた。が、どうしても不安を拭い去れないのは契約主のない状態で交わした契約の信頼性。
「雫は、物じゃない」
 それだけに、絶対に途中で契約を破棄されるわけにはいかないのだ。
「わかっています。途中で放り出したりしません」
 宮本が懸念していることに、榎は即答した。
 雫が義務教育を終えるまでの6年以上を彼女のために過ごす――それに対する代価を何一つ求めずに。やはり、榎はそれに対して何の迷いも持っていない。
 信じるしか、ないのだろうか。
「――なぁ、お前ごと家に来るってのはどうだ?」
 宮本は、提案をする。
 そうすれば榎だけでなく、自分や家族も一緒に雫を守っていける。万が一、将来榎が契約履行を不能としても、あらかじめ一緒に過ごしている自分たちがいれば十分に雫の心をフォローできる。そう思った。
 しかし返される答えは「否」。
「私を、みくびらないで頂きたい」
 誇り高い眼差しが、宮本に圧力をかける。
 焔と同じくそろそろ中年の部類に入る宮本は、小さいながらも会社を経営し、曲がりなりにも人の上に立っている。その宮本が正直、気おされていた。
「……わかった」
 宮本は、諦めた――いや、榎を信じようと決めた。
「だが、これだけは聞いてくれ」
 そして最後にひとつだけ、条件を提示した。
「契約を全うさせるには、お前が倒れちゃならない。これからの生活、必ずお前に負荷がかかる。だから、そうなる前にオレを頼れ。元々オレが雫を見るつもりだったんだ。その代わりをお前がすることになった――その代価を、オレに払わせろ」
 榎は宮本の言葉に微かに眉をひそめた。
 プライドを傷つけられた――しかし、宮本の言うようにこれから自分に負荷がかかることは目に見えていて、彼に反論の余地はなかった。
 逆に、始める前からすでに予測できている事象が原因となり、契約不履行を引き起こすことのほうが彼の自尊心を著しく傷つけることだった。
「……よろしく、お願いします」
 しばらくの沈黙の後、榎は白金の髪を静かに揺らした。


※ ※ ※


 雫は今日、中学を卒業する。亡き焔の持論は「この日が来れば一人前」というものだった。そして、彼が残した最期の言葉は「雫が一人前になるまで頼む」。
 つまり、今日はそういう日。
 榎の胸によぎる思い。これは達成感だろうか。ようやく契約から解放されるという安堵だろうか。
(それとも…………私は、淋しいのだろうか)
 まさか――そう思いながらも己の内で処理しきれない不可解な感情が溢れてくる。
 焔との契約。それだけが今まで榎を動かしてきたはずだった。そう、雫ではない。もうこの世にいない焔が彼を動かす力の源。榎は焔の願いをかなえるために雫を養育してきただけ――。
「私も……支度をしなくては」
 不可解な思いを振り払うように榎は首を振る。
 まだ契約は終わっていないのだ。最後にもう一仕事――雫の卒業を見届けるまでは。
 蛇口をひねり、榎は食器についた泡と一緒に自分にもはっきりと理解できない感情を流し去った。


 そして保護者受付の三十分前。
 榎は7年の間ダイニングテーブルに座っていた彼の契約媒体(水色のテディベア)を持ち、もう戻らないであろう初芝家を後にした。