雨上がりの朝に

2.契約-1



「おとうさんっ!」
「焔ッ!!」
 炎。一面の炎と、水の音。
 そして、炎の中から現れ、倒れた男の影。
 それを見とめて二つの叫び声が重なった。
 雫の中にある榎の記憶はここから始まる。どういう経緯でその場にいたのか覚えていない。けれど確かにそこで榎と居合わせた。



 そして数日後の黒い服の列の中、父の背丈を越す日本語が妙に流暢な外国人青年――榎は、雫を見下ろして言った。
「何故、焔がお前の代わりに死ななくてはならなかった」
 何故、お前が生きているのだ――
 そう言われたような気がした。
 雫は榎の冷たい瞳から目をそらすことが出来なかった。アイスブルーの瞳はどこまでも凍てついて、立っているのが難しいほどに膝を震わせた。
 視線だけで、人は殺される――
 まだ9歳にさえなっていなかった雫は、幸か不幸かそんなことを識(し)ってしまった。
 焔に貰ったばかりのテディベアをきつく抱きしめ、雫は冷たい視線にとらわれたまま呼吸を止めた。――おそらく、自主的に。
(――苦しい。怖い!)
 けれど、身体は氷の瞳から視線を外すことを許さず、震える膝は不安定ながらも身体を無理やり支えていた。
 明滅する視界。しかし、意識を手放すことも叶わなかった。子供でなくてもこの状態は十分に拷問足りえた。
「――何してるッ!」
 この声と衝撃とともに、雫に自由が帰ってきた。
 何が起こったのかわからないまま、雫は大きな腕の中で無我夢中に酸素を身体に取り込んだ。
 雫を救った大きな腕は、父、焔の友人だった。
「大丈夫か、雫」
 宮本は雫を抱きしめ、背を優しくさすった。咳き込むたびに唾液を飛び散らせていた雫だったが、宮本はそんなことを気にもとめずに「もう大丈夫だ」と微笑む。
「……雫に何をする気だ」
 しゃくりあげる背をなだめながら、宮本はアイスブルーの瞳に低い声で問うた。
 実際、榎は雫に何もしていない。したとすれば声をかけ、視線を合わせただけ。雫の首を締めたわけでもなければ呼吸困難に陥るような薬剤を使ったわけでもない。――はたから見れば、榎が宮本に言いがかりをつけられているようなものだった。
 当然といえば当然なのだが、榎はその問いに答えない。
 しかし、二人の間にはそういった空気は流れていなかった。
 宮本は榎が雫を殺そうとしていたことを確信していて、榎自身もそれを否定しようとしていない。沈黙は、それを認めているものだった。
「――もう、初芝は死んだ。何処へでも行っちまえ。雫を殺そうだなんて、お門違いもいいとこだ」
 砂を噛むような表情で宮本は榎に言い放った。
「こんなことをしても、初芝は戻らない。そんなこと、お前が一番良くわかってんだろうが!」
 声を荒げた宮本に対して、榎は初めて口を開いた。
「……わかっていますよ。わかっているのに、納得が出来ないのですよ!」
 荒げた声も、彼の容姿と同じく美しかった。
 透き通り、心地よく胸に響く。けれど、とても切ない。
(天使が泣いてる……)
 宮本の胸にしがみついて咳き込みながら、雫は思った。
 その瞬間、榎の悲痛な叫びが焔の死の真相を雫に突きつけた。弾劾――精神的苦痛から逃れるため、無意識に父の死の理由をあやふやにしている雫を、榎は責めた。
「何故焔はこんな娘を守るために死ななくてはいけなかったのです! 彼はまだ、死ぬときではなかったのに!!」
 彼自身、焔を助けることができなかった己への弾劾を胸にくすぶらせながら――けれど、それをそうと自覚できずにいた。
 彼もまた雫と同じ。焔の死という現実を直視したくなかったのだ。
 そして胸の中で暴れ狂うそれに対処するには、目の前の少女は十分すぎるほどその条件を満たしていた。
 この娘さえいなければ……自分が原因だと都合よくも忘れてしまっているこの娘さえいなければ!
 榎は、思いを吐き出さずにいられなかったのだ。
(私の、せい……?)
「雫のせいじゃない!」
 しかし、榎の言葉に一瞬身体を固くした雫に気づいたのか、宮本がそれを即座に否定した。
 雫が焔の死の真相を忘れようと別の記憶をつくったのならその方が都合がよかったからだ。
 父親が目の前で自分を庇って死んだなど、子供が背負うには重すぎる事実。亡くなった焔も、雫がそれを引きずって生きていくより、早く忘れることを望むだろう――雫と同い年の息子を持つ宮本は、我が身に置き換え、心からそう思う。
 榎の心無い言葉――辛い事実から雫を庇うように、宮本は小さな頭を優しく抱きしめた。
「親が子を守ろうとするのは当然だ。初芝の気持ちがわからないならさっさと消えろ。あいつの最期の言葉はお前には契約外だ。履行する義務はない。お前がここにいる理由はもうない。初芝は死んだ。……お前との契約もそこで終わってるはずだ」
 宮本の言葉に、雫を責めたてていた榎の表情は一転した。
「……そう、そうです……私は、何故、ここにいるのでしょう……。焔との契約は、切れた。ここにいる理由は、もう、ない……」
 疑問、困惑――。誰に問うわけでもなく、榎は自問した。
 そもそも、あの時焔は榎に助けを求めたわけではない。「一人で解決する。絶対に手を出すな」そう命じてさえいた。その結果がこうなのだ。焔の自業自得であって榎に非はない。だからこそ榎は自責の念を自覚できずに胸にくすぶらせている。
 しかし宮本の言うように焔はもう戻らない。もうここにいることも、暴れ狂う不可解な感情を抱くことも、ましてや雫を責めることも、すべては無駄なことだ――理性的に考えればそう落ち着くのに、感情は収まらない。
 榎は自分を把握できなくなった。
 初めてのことだった。
 一方、そんな大人たちの会話は雫には意味のわからない難しいものだった。おそらく、父親とこの青年は仕事上の付き合いがあったのだということくらいしか理解できない。
 ただ、後ろで青年が美しい顔を苦痛に歪めていることだけは、はっきりと感じ取れた。
(……やっぱり、泣いてる?)
 そう思った瞬間、雫の身体は勝手に動いていた。
「雫!」
 驚く宮本の制止を振り切って、雫はついさっき自分を殺そうとしていた榎の元へ歩み寄り、両手で顔を覆っている彼を覗き込んだ。
「……これ、あげる」
「――!?」
 榎は胸元に差し出されたものに、目を瞠った。
 自分が殺そうとした少女が目一杯背伸びをして差し出していたのは水色のくまのぬいぐるみ。よく、見覚えのあるものだった。
 生前――それもつい最近まで、仕事の合間合間に焔が縫い上げていたものだ。


『私がやりましょうか?』
 あまりに危うい手つきに彼は何度となく申し出た。
『いや、大丈夫。全部オレが作ってやらないと、意味がないんだ。一針一針、オレが縫ったんだぞっ――てな』
 しかし、焔はこう笑って手伝わせることはなかった。
『不恰好じゃないほうが喜ぶんだろうがなぁ。ま、オレの自己満足だな、うん』
 自己満足だと評価しつつも、「それでいいのだ」と焔は言った。
『親子の愛情確認さ』
 榎は焔の言いたいことがあまりよく理解できなかった。そういうものなのか――その程度しかわからなかった。


「――ふぇッ」
 不安定なつま先立ちが長く続くはずもなく、遂によろけた少女が、鼻っ柱を榎の腹部にぶつけた。
「っ……」
 身長130センチほどの雫が榎にもたらした衝撃はたいしたことはなかったが、ぶつかった雫本人にはかなりダメージがあった。運悪く、ジャケットの間に見え隠れしていたバックル部分の金具を鼻に引っかけてしまったのだ。
「雫ッ、血が出てるぞ」
 宮本が慌ててポケットに手を突っ込む。
「……馬鹿な娘ですね」
 が、宮本がハンカチを差し出す前に榎が雫の目線まで屈み、そっとハンカチを鼻に押し当てていた。
「これ、お父さんの形見。あげる」
「……あなたの傷を診てあげようというのに、これでは診れないではないですか」
 同じ目線に来たのをいいことに、雫は本来の目的を果たそうと榎の眼前にテディベアを差し出した。榎の視界は彼の瞳と同じアイスブルーに塞がれてしまう。
 榎にとって、雫の行動は馬鹿げたものでしかなかった。自分の傷の手当を邪魔してどうするというのだろう。
(――本当に馬鹿な娘だ)
 そう結論がでる。
「こんなの平気だから。これ、あげる」
「……」
 榎は、一向にぬいぐるみをどける気配のない雫に溜息を吐き出す。
(馬鹿すぎる。それにこのぬいぐるみは――)
 そして、焔が彼女のために一生懸命作ったものをあっさりと他人である自分へ渡してしまう雫の行為に苛立ちはじめていた。
(焔は私に何も残してくれなかったというのに!! 何と傲慢な!)
 怒りさえ湧き起こってくる。
 榎は雫の手からぬいぐるみをひったくるように奪うと再び立ち上がり、鼻の頭から血を流す彼女を見下ろした。
「……焔があなたに作ったものですよ。不恰好だからいらないというのですか」
 詰問、そんな口調で雫を睨みつけた。しかし、
「――不恰好!? お父さんが作ってくれたのに!!」
 雫の返答が榎の耳に届くと同時に、彼の膝には衝撃が走った。
「やっぱり返せ、バーカ!!」
 汚い言葉を連呼しながら、雫は榎木の膝に全身の力を込めて蹴りを入れた。何度も、何度も、容赦なく続けた。
「雫っ!」
 宮本が止めに入る。――が、雫は宮本の腕の中に掴まってもなお全身で暴れ続けた。
 榎は雫が何を考えているのか理解できなかった。奪い取ったぬいぐるみを手にしたまま、突然暴れ出した彼女をただただ、呆然と眺めるしか出来なかった。
「……いらないわけないだろうが」
 半泣き状態で「返せ、返せ」と喚き、暴れている雫を押さえ込みながら、宮本は溜息をついた。
「お前の初芝に対する想いへのこいつなりの最大の敬意だ。わかるか?『お父さんを想ってくれてありがとう』こういう想いだ。雫にとって一番嬉しい贈り物だったんだろう、それは」
 宮本は、呆然と自分たちを見下ろしているアイスブルーの瞳に雫の気持ちを噛み砕いて伝えてやる。
「……」
 宮本の言葉に榎は、奪い取ったくまと鼻を血で染め涙目になっている雫の間に視線を交差させる。
「……宮本の、言うとおりなのですか?」
 静かに、訊いた。
 再び膝を折り、少し落ち着きを取り戻した雫に視線を合わせる。
「……」
 無言のまま、雫はこくんと小さく頷いた。
 噛み付きそうな勢いは、榎の静かな瞳によって静められていた。
「あなたにとって、これは大事なものだというのですか?」
「……お父さんが、作ってくれた。バカにするなら返せ」
 搾り出すように呟いて、雫は再び頷いた。
 そして、睫毛に溜めた涙を、零した。
 声をあげて泣いてしまえばいいのに、雫は唇を引き絞って瞳を見開いた。「泣いてなんかいない」そう全身で主張していた。
 その時、かろうじて曇天を保っていた空から大粒の水滴がひとつふたつと落ちはじめた。まるで、雫の涙を隠してくれるように。
「……雫、初芝が上から水かけてきやがったぞ」
 宮本が空を見上げて、雫の頭にハンカチを載せた。
「……焔……」
 榎も水滴を落としはじめた空を仰いだ。
 鈍色(にびいろ)の天から降る雨は、最期まで焔が気にかけた娘と同じ名で呼び示されるもの――滴。
 そして、彼が好きだった天候。己の名、焔――炎と対極にある水を好むなど変わっていると、榎は何度となく思ったものだ。
『雨は優しいから好きさ』
 以前、焔は言った。いとおしげに暗い空から落ちる滴を見上げて。
『優しいも何もないのでは?』――その時、自分はこう答え、焔の言うことが理解できなかった。しかし、今ようやく焔の気持ちがわかったような気がした。
(雨がこんなに優しいものだとは……)
 強がる雫に降り注いだ雨は、ただの偶然。タイミングがよかっただけの自然現象に過ぎないのかもしれない。
 けれど、今確かに雫はこの雨に優しく包まれている。
 独り残された寂しさや不安を小さな身体に隠し、精一杯の虚勢を張っている雫。泣いてなどいない――彼女のその主張を雨は黙って認めている。
(焔にも、こんな雨が降ったのだろうか)
 ぼんやりと榎は思う。
 ――そして、決めた。
「……宮本、私は焔の言葉に従いましょう。契約は焔の最期の言葉と焔の血を引くこの娘の血によって成立する」
「バッ……待て、メタ……!」
 宣言したと同時に、榎は雫の顔についている血液を指にとり、テディベアに押し付けた。ひとかけらの迷いもない彼の動きに、宮本の制止は間に合うはずもなかった。
「契約、成立です」
「けい……やく……?」
 大人にしか関係のない言葉だと思っていたそれを、雫がすぐに理解できるはずもなかった。
 舌打ちする宮本と、突然不可解な行動をした青年を眺め、雫は彼のしたことにようやく気づく。
「アッ!!」
 声を上げたが早いか、雫は青年の手にぶら下がるように掴まった。父の形見は、彼の手の中で汚れてしまっていた。
「これは、私にくれたものでしょう」
 さらりと、榎は言った。
「……っけど! 大事に……」
 大切にしてほしかった――。
 その言葉は続かなかった。
 雫はこのとき、焔が死んでから初めて声を上げて泣いた。