雨上がりの朝に

1.朝



「おはようございます。今日が雨でよかったですね、雫」
 初芝家では『おはようございます。卒業式の今日、雨で早起きができてよかったですね、雫』と訳される。
 そう、普段の雫は朝が苦手。雨の日以外はすこぶる目覚めが悪く、起こせど起こせどウンともスンとも言わない。彼女の目覚ましを七年近く担当してきた同居人兼保護者は、毎朝雨が降ればいいと思っていた。今日のような遅刻できない大イベント日は特に。
「んもー。せっかくの晴れの日くらいは雨じゃなくても早起きできますー。朝からイヤミ言わないでよ、えのっきー」
 自分でそう言いつつも雫は思う。いや、それはないでしょう――と。
 しかしその事実を認めるのも面白くないので、とりあえずうそぶいてみる。そしてそれを良くわかっているのだろう。雫の強気の発言に対して何も突っ込むことなく、同居人『えのっきー』こと榎は「どうぞ」と濃い目のお茶を差し出して微笑んだ。
 その「すべてお見通しですよ」な態度は、決して雫の気分を害するものではない。むしろくすぐったい。赤の他人同士でも、二人は家族だと感じられる温もりがそこにはあるから。
 榎に苦笑を返して、雫は朝食の準備が整えられたテーブルに着く。いつもの雫ならこの時点ではねぐせ爆発、よれよれパジャマといういでたちなのだが、くどいようだが今朝は雨。背まで届く栗色の髪は丁寧に櫛を入れられ、服もきっちりとプレスしたセーラー服に着替え済みだった。
(早いものだ……。もう、この日がきてしまったのか)
 榎はその姿を見て感慨深げに微笑む。
「雫、毎朝の私の苦労を思えばこのくらい厭味でもなんでもありませんよ?」
 ルネサンス期の天使像のように端正な顔。サイドに流されたさらさらの髪は、溜め息が出るほど見事なプラチナブロンド。勿論人工的にそうしたものではなく、天然もの。およそ『榎』という名からかけ離れ、且つ、神々しい域にまで達している容姿を持つ彼に、こう微笑まれて戸惑わない者はないだろう。
 雫はそういう面では7年近くの付き合いで得た免疫があった。が、この容姿と極上の微笑で静かに攻撃をされてしまうと、ただ視線を泳がせるしか対処の方法を知らない。
 毎朝の自分の抵抗がいかに低レベル且つ悪質で、どれほど榎に迷惑をかけているのか本人も十分に自覚しているだけ余計に、である。
「さぁ、ごはんにしましょう」
 あちらこちらに視線を泳がす雫にふき出すと、榎は話題を切り替え、味噌汁をよそりはじめた。
 その後姿に、雫は心の中でこっそり頭を下げる。
「……ありがと」
 榎は、父親を亡くし身寄りのなくなった雫を7年近くもの間養育してきた。雫の父、焔(ほむら)の仕事仲間だった彼は、遺産で雇われているわけでも何でもない、純粋に焔への恩義だけで動いている赤の他人。
 それがそう簡単に出来ることでないのはまだ幼かった雫にも容易に理解できた。そして、この恩をどう返していけるのか未だ想像もつかない彼女だったが、榎と彼をそう駆り立ててくれた父に感謝を忘れたことはない。
 義務教育を終える節目の今日、当たり前のように朝食の用意をしてくれる彼の背中に改めてその思いが募る。
(今はこんなものでしかお礼が出来ないけど……えのっきー、ちょっとは喜んでくれるかな?)
 今日のためにこっそり準備をしてきたプレゼントが学校のロッカーに隠してあった。卒業式の後「今までありがとう。これからももう少しよろしく」と渡すつもりのもの。
 雫は朝食の間、そのときの榎の反応を想像してくすぐったくなる胸と緩む頬を必死で隠していた。



「はい、できました」
「わ。いつもより手が込んでる〜。かわいいかわいい」
 食事の後、榎はいつものように雫の髪を結ってやった。雫は年頃の女の子らしく、嬉しそうに笑う。榎もその笑顔を見て満足げに微笑を返した。
「卒業式ですからね。暴れてぐしゃぐしゃにするんじゃありませんよ」
「はいはーい。それじゃ、行ってきまーす。式終わってから教室で会えると思うけど、待ち合わせ、11時45分に校門前だからね」
「わかってますよ。気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい。えのっきーも気をつけて来てよ。んじゃまたね」
 一足先に出かける雫を送り出す。
 学校のある日は毎日、7年近く繰り返した朝の風景。
 閉められるドア。その向こうから聞こえる階段へ向かう軽やかな足音。慌てる必要などないのに、階段を駆け下りる癖。この音が15段分聞こえるまで榎は玄関で待機している。そして、無事にその音を確認してからダイニングに戻って一息つくのだ。
「………………」
 15段目。雨音に混じって楽しそうに跳ねる音を確認して、榎はダイニングへ踵を返した。雨のためいつもよりは幾分余裕のある朝だったが、やはり雫の残した慌しさの余韻を感じる。
 ここで雫と過ごすようになって6年と8ヶ月。早いものだと榎は過去を振り返る。焔が亡くなった時には、よもやこんなことになるとは思っていなかった。
(……不思議なものですね)
 水につけられた雫の茶碗。
 雫のために食事を作り、その片づけをする。彼女のために何かしら手を焼くのが正直心地よいと感じている自分がここにいる――
 榎はスポンジを片手に、しばらくの間水に沈む食器を眺めていた。