数回しか顔をあわせたことがなく、まともに言葉を交わしたことなどはっきり言ってまったくない北武水とは、コンビニ駐車場で会った時も「ども」「おう」これだけの会話しか交わしていない。それからも数十分、密室の中でふたりは無言のまま、運転に必要な動きと乗せてもらう人間に必要な動き以外何もなかった。
 その密室は今、街を離れ、山道をぐんぐん進み、人気がなくなった夜の闇と静寂のなか停車中。
 密室内のふたりの保っていた均衡は北武水によって崩されていた。
(どどど、どうしよう!! これってやっぱりアレだよねぇッ!?)
 力で敵うわけはない。わかっているが、とりあえず先制のグーパンチくらい繰り出せるうちにだしとくべきだろうか。
 コハクは迫り来る北武水の右手に視線を固定したまま、律儀にシートベルトをしてしまっていた自分をのろいながら考えを巡らせた。
(逃げるのは無理だ。と、とりあえずやられる前に一撃はお見舞いしたい! でっ、でも、勘違いって可能性も捨てきれないような気がしないでも〜〜〜!! それに、そのせいでこの重量級パンチくらったら〜〜!! 酷い目にあわされる上、殴られるなんて勘弁してよッ!! ああッ、これはホントに「そう」なの? それとも勘違いなのッ!? どっち!? 早く判断しろ、ワタシ〜〜〜!!)
 ほんの一瞬で走馬灯のように考えが駆け巡る。相当切羽詰ってパニクッているからなのだろう。
 その間にも北武水の手はコハクに近づいてくる。
(――――――――――ッ)
 コハクの脳が会議を強制終了させるとほぼ同時だった。
 小さな右手の握り拳と
「ちょっと待て!」
 の低い声が密室を交錯した。

「……………………タバコを、吸ってもいいですか」
 ごつごつした厚みのある左手で小さな握り拳を包むように受け止めた北武水が瞬きを忘れているコハクに言った。
「えーと、その、膝の上に持って貰ってる袋に入ってるんですけど」
 言われてコハクは膝の上の荷物に目をやる。車に乗るときに助手席に置いてあった白いビニールの手提げ袋だ。どかしてみたらその大きさのわりには軽いものだったので、膝の上に乗っけていたのだ。30センチほどの長さの直方体がふたつ。袋の口から中身を覗いてみれば、タバコが2カートンだとわかる。
「OK? 手離して大丈夫? 殴らない?」
 シートに身体を戻し、北武水は空いている右手で自分の左手とそれで掴んでいるものを指差した。
「――――!」
(こ、これは――か、か、か……勘違い〜〜〜〜!?)
 コハクは首をコクコクと縦に振り、北武水の左手から右手を解放してもらった。
(は、はじぃ〜〜。めっちゃくちゃ恥ずかしい状況じゃない!?)
「……ど、どうぞ。ハイ」
 街灯も何もない真っ暗闇でよかった、と顔を熱く火照らせたコハクは思った。平静を保ったふりをしてカートンの袋を破り、タバコを1箱取り出して北武水に差し出す。
 受け取ったタバコの包装を剥くようにはがし、北武水はタバコを取り出してくわえると火をつけた。
 オイルのにおいとタバコの煙がエンジン音が響くだけの車内をくゆる。
 深く吸い込んだ煙を溜息のように吐き出して、北武水は窓を開けた。そして、何事もなかったようにギアをローに入れ、サイドレバーを下ろして車を走らせた。
(き、気まずい……。何もなかったことで済ませてくれるのはありがたいような気がしないでもないんだけど、何も無言でそれをしなくても〜〜!! 間がッ、間が更に持たないじゃないさ!?)
 そうコハクがヘビの生殺し状態に陥りかけたとき、北武水が目一杯溜息をついた。
「――?」
 タバコの煙を吐き出すそれとは明らかに違う。コハクはさっきのアレを責められているのかと北武水の横顔をうかがった。
「期待されてるなら応えニャ損――いやいや、失礼かと思ってたんだけど」
「は――――?」
「オレの期待はずれ――てぇか、オレがしてたのと逆の期待をしてたワケだ、猫ちゃんは」
 突然饒舌になった北武水の言うことに、コハクはついていけない。
「怖い思いさせてゴメンなー」
 あっけらかんと言い放つその様は、いつもゼミ室で見る気さくなおっさんそのもので、さっきまでの男オトコしている彼とは違った。
「しっかし、いい右パンチ持ってるな〜。まだ左手じんじんしてるんだけど。アレがあれば猫ちゃん大丈夫だよ。絶対襲われたりしないから、そんなに警戒しなくていいって。いやぁ、しっかし、残念残念」
 北武水はひとりタバコをふかしながら笑った。
 その30秒後、コハクはようやく彼の言葉すべてを理解する。そしてひとつの疑問が生まれた。
(こ、これは、私の緊張と警戒を解かせたかっただけ? それともそれは考えすぎで私がその気ならあのまま――だったワケ!?)
 もし前者なら、ものすごくいい人なんだけど、後者なら……
(ただの遊び人ジャン!)
 まだ、身の危険は去っていないのかもしれない。
「あー。あの、ですね。人見知りしてた私の緊張を解いてくれたんでしょーか。それとも、ホントにできるならしちゃおうとか思っちゃったりしちゃったりしてたんでしょーか?」
 軽くなった空気をいいことに、コハクはかわいた笑いを交えながら軽く訊いてみた。
 ――しばらくの間。
 そしていつの間に1本目を吸い終えたのか、2本目のタバコをくわえながら、北武水は横目でコハクを眺めて笑った。
「ん? さ〜ぁ、どっちでしょー」

 こんな出来事から2時間後。
「オイオイ、オレ、ノーマル嗜好だぞ。ニャーこなんぞに欲情するわけないだろーが。こんなコゾウとラブる趣味はないっすー。こう、胸がババーンとあって、やわらかーい女の子がいいんですー」
「あぁーら。コチラこそ、こんなむっさいオッサンなんか好みじゃないでスー。だぁからパンチくれたんで・す・け・ど! 若くてカッコイー男の子があふれる大学に通いながら、なぁにが面白くてこんなオッサン好きになるかなー」
 ふたりはこんなことを言い合うほど仲良くなっていた。

 この直後、コハクは親友ソノサチに呼び出され、衝撃の告白を受ける。勿論、前言撤回&平謝りを北武水にではなく、彼を思う彼女にのみしたのは言うまでもない。
 そして後に、このときの出来事を北武水はこう語る。
「オレ、猫系の警戒心たっぷりの動物手懐けるの得意なんだよなー」
――と。

[ back ]
[ novel index | home ]